航海日誌No.30

第30日目 箱根観光

今日は湯河原温泉のホテルを9時に出発しJRの湯河原駅に向かう。
小田原から箱根登山電車に乗る予定だったが急遽湯河原駅から定期観光バスで箱根めぐりをすることに決定。
バスの発車時刻10時まで駅前の喫茶店で朝食。コーヒータイム。
観光バスは10時に出発し伊豆高原を走り箱根関所に到着。
箱根関所を見学し、芦ノ湖遊覧船で湖上遊覧し小沸園に到着。
箱根水族館の見学や昼食をとり、バスは1時出発。
大沸谷の地獄谷に到着。名物の硫黄黒ゆで卵を頂き、硫黄の噴出する地獄谷を見学。
バスは2時に出発し一路終着地の小田原駅に到着。
JRに乗り換えて真鶴駅まで帰る。
今晩は初めてのペンション真鶴に宿泊。
明日は波もおさまりそうなので伊豆半島の突端であり、難所の石廊崎が通過できれば静岡県の御前崎あたりまで行く予定。
駿河湾の波がなければ御前崎を通過し三重県の伊勢鳥羽市まで行く予定。
もし石廊崎の通過が困難であれば伊豆の下田市あたりで足止めになるかも。
2005.6.28

地獄谷

硫黄の臭いがプンプン

箱根水族館 クマノミ

芦ノ湖

箱根関所

小田原駅ホームより

航海日誌No.31

第31日目 真鶴港出港―焼津港入港燃料補給と休憩―舞阪港入港―森山悟志君合流

石廊崎の天候回復のため少し遅く9時神奈川真鶴港を出航。
濃霧の中、熱海沖、伊東沖を通過、波は回復している。
稲取温泉付近で少し霧もはれる。 この調子だと石廊崎通過は大丈夫だろう。
下田沖を通過するとさすが石廊崎、少し手ごわい波に変わる。
無事通過し駿河湾に・・・・ 波も落ち着いてきたので一気に静岡市に向け進路を西に変更。
駿河湾をショートカット、天候不順のため富士山を眺めることは不可能なため予定航路変更。
途中焼津港で燃料補給と休憩。 もうひとつの難関御前崎を目指す。
やはり岬と名のつくところは波も手ごわい、さすが太平洋、夏の日本海とは大違い。
予定していた浜名湖の舞阪港まで高波が続く。
我々二人も、波と濃霧は、北海道の羅臼以来百戦錬磨? 少しは免疫が出来ている。
正面からの波の続く太平洋を無事航行、舞阪港に入る。
今日はもう1人の友人森山 悟君が新幹線で浜松まで来ることになっている 。
ちょうど我々の入港予定と浜松到着時刻を連絡しあっていたのだ。
5時半舞坂漁港にタクシーで到着。 明日から2日間共に3名で航海するのだ 。
今夜は弁天島温泉に宿泊 久しぶりにスナックに行った、カラオケも歌った♪
スナックのママさんが日本一周の話に感動し店名の入ったオリジナルのティシャツをプレゼント頂いた 。
さあ後2日間頑張るぞ !!
2005.6.29

石廊崎灯台

焼津港

焼津係留中

航海日誌No.32

第32日目 舞阪港出港―大王崎を廻った和具漁港入港―串本港入港ーすさみ港入港

舞阪港は防波堤が短く出入港が難しい港。 地元漁師も波のあるときは緊張するとの事。
昨日入港時も後ろ波が強く白い高波の立つ港口であったので出航も緊張する。
地元漁師のアドバイス通り左防波堤の間じかを航行して無事出航。 沖は波も比較的穏やかで愛知県に入る。
伊良子岬から伊勢湾横断。 多少波は高いが無事航行、三重県鳥羽沖に到着進路を南にとって志摩大王崎を目指す。
途中給油のため漁港に入ろうとすると海女さんの活動場面に遭遇!
結果的には監視船も居たのだが、何の警告も合図も無かったのでただの漁船と思って航行。
突然海女さんが浮上、あわててスクリュウ回転緊急停止! 見れば付近はいっぱいの海女さん・・・・びっくり。
大きな声で謝って、微速前進、脱出・・・・警戒船も警告の汽笛を鳴らすなど対応が必要。
入港をあきらめ大王崎を廻った漁港に入港、燃料補給と休憩。
一路和歌山県串本を目指す。 途中熊野市沖より波が高くなり正面からの波で10ノットで航行。
新宮沖、那智勝浦を通過し串本港入る 。左に大島、右に橋杭岩を眺め入港 。 燃料補給と休憩 。
いよいよ明日は最終日、相生入港の日だ。 新聞記者や出迎えの皆さんとの入港予定時刻の調整が必要 。
今晩串本に泊まると明日の入港時刻が遅くなりトラックに積み込んで豊岡まで帰ると遅くなる。
波が高いがすさみ港まで進めることに決定。 すさみ港なら朝早く出れば相生入港が午後1時とすることが可能。
高波の潮の岬を無事通過すさみ港に6時無事入港 。
2005.6.30

伊良子岬

伊勢鳥羽付近

志摩大王崎灯台

三重 熊野市付近

和歌山 潮の岬

すさみ港

航海日誌No.33

すさみ港出港―家島港入港時間調整昼食―相生港入港

今日は最終日、相生入港である。 午後1時に入港するため時間の遅れは許されない 。
最終的に瀬戸内海の家島港で昼食と時間調整することにし、すさみ出航。
波も穏やかで順調に航行、白浜沖を通過、御坊沖から紀伊水道を横断して徳島県小松島に向けて方向転換 。
一路鳴門海峡を目指す。 鳴門海峡通過し播磨灘に入る、さすが瀬戸内海はべたなぎである。
時間的余裕があるので家島に立ち寄り昼食と時間調整することに決定。
鳴門海峡から家島まで約60キロ。
家島港は船が多く係留場所の確保が困難なことは経験しているが相変わらず混雑している。
仮係留すると海運会社の人がもうすぐ貨物船がこの岸壁に入るので隣の船に横付けしてもらってOKとの事。
ホットひと安心、係留するや否や貨物船が入港 。近くのレストランで昼食。
相生までは30ノット(約60キロ)で20分程度の家島港 。
12時40分出航1時調度に相生野瀬岸壁に入港。
すでに出迎えの人や新聞記者の皆さんも待ってくれている 。
手を振りながら無事入港 ホットひと安心・・・・。
しかしこれで終わりかと思うと非常にさびしい・・・
早速記者の写真撮影とインタビューを受ける。
ついに夢が達成した・・・・!!!
一休憩して岸壁でトラックに積み込み 一路、陸路ふるさと豊岡を目指す。
6時30分豊岡に到着、お疲れ様でした 又何かやりたいものだ!
2005.7.1

白浜海岸

鳴門海峡

鳴門海峡 通過中

兵庫 家島港

家島町

とうとう相生港入港!

帰ってきました

三人仲良く入港

相生港 係留中

上陸!!!

妻と再会の握手

記者の取材 読売新聞社

記者の取材 神戸新聞社

夢 達成

船をトラックへ積み、一路豊岡へ

皆さん、ありがとう

中村君、ありがとう


航海後記
平成17年7月7日 伊藤 清悟

 今回の日本一周は情報収集のため、船の必要装備、気象条件、各立寄り予定港の状況、先輩達の経験談、など雑誌やネットで相当資料集めをした。その結果日本全地区で最も波が低く霧が少なく、台風の影響が少ないのが5月から7月にかけてである事が分かった。決行時期を決定してからは主に全国の港湾の状況、又地図に載っていないような小さな漁港までネットや地図で徹底的に調べた。
 

 急に波が高くなってきた時緊急避難する避難港の把握は最も大切な事である。
それでも漁港空白地帯は全国に相当ある。砂浜の続く海岸には漁港は無い、又断崖絶壁に続く海岸で人家の無い地域は漁港も無くおまけに携帯電話圏外地域が多いのである。だからこの事の把握は最も大切な準備作業であった。
 

 結果的にはそのような地域を航行中に限って急に風が強くなって波が高くなる事も数多く経験した。
北海道の知床半島東部から千葉県房総半島までは最も霧の少ない時期を選んでいても、深い霧に包まれるのである。午前中だけでなく、1日中霧の中も当たり前の海域である。GPSプロッター(現在地及び進行方向表示)だけではまったく航行不可能である。

 障害物や航行中の船舶の発見に航海用レーダーは必需品である事は身をもって体験した。
ひどい時は50メートル先が見えないのである。波が無ければ濃霧の状態で時速50キロ以上で航行するのである。 
太平洋はおおむね午後になると波が高くなる事も経験した。春から秋にかけてのきわめて穏やかな日本海と波が小さくてもうねりが必ずある太平洋とは大きな違いである。さすが太平洋、日本海とは何かに付けてレベルが違う。漁師の皆さんも太平洋岸の出漁中止する波の基準は3メートルから4メートルである。地元但馬は1.5メートルが1つの基準である。常に波が高いのが太平洋、1.5メートルでは出漁する時がないという。民宿の奥さんでも、私が高波で躊躇していると、この程度はなぎですよ!これで出港しなければ出る時無いよとハッパをかけられる始末。又有名な岬と名のつくところは大方その突端では高波になる。見事、間違い無しといってもいいくらいである。だから大きな岬を越える日はいつも緊張し、波が低い事を祈る気持で出港していた。
 
 同乗クルーの中村さんには結構プレッシャーのかかる日もたくさん有ったと思う。ビビって待機ばかりでは前に進めない、判断の難しい日も有った。船長である私の判断を信頼して同乗してもらったことに感謝している。しかし私自身も本当に危険を感じた時も2回程あった。波で船が空中に突き上げられスクリューが空中でカラ回り状態でエンジンがうなり、船にかぶる波がキャビン天井の上をざあざあと越して行く、ワイパーも効果無しの状況が続いた時など、色々体験した。不安感を増幅する事無く、冷静さを保たなくてはならない。

 2人の会話が無く無言状態が続く時は正に一生懸命のハンドル操作で操船中である。
私も横波を受けないように懸命の操船で口数が少なくなる洋上で異常な状況が続く・・・同乗者の中村さんは舵を持つ私以上に不安感が大きかったと思う。この難関をクリアーした時は安堵感と同時にドット疲れが来るほっと一息お茶を飲む一服のタバコが気持を落ち着かせてくれるこの時、2人の会話はいつも同じ「もうこれで安心だ!」である。
 
 携帯電話通話不能の圏外地区の航行も不安である。
定期連絡メールを入れる事が出来ない連絡が無く電話をかけても通じない不安は実情のわからない陸上スタッフは尚一層であろう。陸上スタッフの責任者は潟ラクの伊藤修生専務である。連絡が取れない時間が続いた時、海上保安庁に連絡するかどうかの判断を専務に一任している携帯圏外地区は大方把握して航海に望んでいるので、その地域に入るまでにその旨を連絡する事にしているが、九州鹿児島県大隈半島の佐多岬から内之浦港までの役60キロの携帯圏外地区に入るまでにその旨を専務に連絡する事を忘れてその海域に入っていた。急に波が高くなりスピードは出せない、時間がかかる、心配しているだろう。海上保安庁が来たらまずい、早く通話可能地域まで脱出したい今でも千葉県犬吠埼沖の海域と同様に忘れられない海域になってしまった。又決して高波の海域ばかりではない。べた凪の続く日本海、四国沖、などゆったりとした船旅もあった。

船でしか行けない世界遺産候補地、奥知床半島にも感動した。
 
 全国の各港でのいろんな人とのふれあい、いろいろ親切にしてくださった人達、たくさんの人々と出合った思い出、人情は忘れられない。
いろんな品物の差し入れ、プレゼントも頂いた。係留場所を親切に指示頂き、手伝っていただいた方も居られた。本当にありがたい事である。
 
 そして船に掲げた「只今日本一周中」の看板の効果も非常に大きかった。
岸壁に近づくと、どこのよそ者が来たのか?不信感を持つ人が多いのも事実!そのとき威力を発揮するのはこの看板である。只今日本一周中の看板を見るなり態度が変わるのである。これは大変だ!係留場所を探しているのだろう…・協力してやろう!と言う方向に心が急に変わるのである。ほとんどの港、漁港で看板に助けられた。お陰で親切にもしていただいた。感謝・感謝である。
 
 私は今回の日本一周を通じて、必ず成し遂げようと思えばできるものだという事を実感した。
全て本気でやろうと思うか思わないかの問題だ。本当にやろうと思えば研究もするし努力もする。その結果益々実行する事に自信が付き実行の決断に結びつく。
 
廻ってみれば日本は小さい…もっと大きく感じると思っていた!私を信頼して小さな小船での日本一周に同乗していただいた中村さん有難う!あなたのお陰で私の夢も達成できた…感謝・感謝!
 
 そして長期間留守にして迷惑をかけた潟ラク役員を始め社員の皆さん、家族の皆さん有難う
特に陸上責任者の潟ラク伊藤修生専務にはお礼を言いたい。日々何回と入る本日の予定から出港メール、日々5回程度の現在地通信メール、状況報告メール、そして無事入港メールまで、本当に航海状況が気になる日々であったと思う。メールが入らなければ不安が募り電話入れようかと思った事であろう。本当にありがとう!
 
 そして出発当日早朝より見送りに来て頂いた、たくさんの皆さん、そしてエンジントラブル発生時に快く対応し関係先を手配頂き、いつもお世話になっている城崎温泉マリーナの木下さんにも心より感謝します。
皆さんの見送りと協力体制に支えられて挫折する事無く無事目標を達成する事が出来ました。本当に有難うございました。
 
 さてこの度の航海でトータル2.300枚以上の写真を撮りましたがこれもフイルムの要らないデジタルカメラのお陰!
フイルム代の事を気にしなくてもいいのは最高!文明の利器に感謝…。今回は紙面の都合上掲載できたのは一部に過ぎませんがお許しください。
 
 又参考までにですが、今回使用の船はフォーサイクルガソリンエンジンのため燃料がガソリンとなる。
燃料が軽油であればガソリンスタンドのタンクローリ車や、漁協の給油船などで簡単に給油が可能ですがガソリンはタンクローリで輸送する事が法律で禁止になっている。毎日230〜250リットルのガソリンを消費する為、燃料補給が一番の大問題。ポリ缶での輸送は10g迄と法律で制限され通常ガソリンの輸送は鉄製携行缶に決められている。大方のスタンドは鉄製の20g携行缶は数個しか所有していない。私も危険物取扱者の免許を持っているので、あらかじめ出港時に鉄製携行缶9缶を積載していた。しかしスタンドに連絡してすぐに携行缶を引き取りに来てくれても約20分はかかる。そして持って帰って20分、燃料の詰め込みに20分、スタンドから船まで配達して20分、その燃料を船に補給して30分、携行缶9本で180gしか運べないので再び空き缶を持ち帰って20分、補充して20分、再び配達して20分、不足分を再び船に補給して20分、以上合計何分かかるか?あっと驚く170分。2時間30分以上の時間。スタンドが遠くて3時間以上の時も有った。今回一番の問題点は燃料補給でした。
 
 最後に、この航海記は手作りの為見苦しいページもあろうかと思います。
其の点ご理解ください。今後、長年の夢だった日本一周航海の体験を本業の仕事面に生かし、さらなる社業のユラクグループ発展に努力したいと思います。